(ビッガー)






 ―ミーン…ミーン…。響く蝉の声がいやに耳に入って煩わしい。わたしは思わず顔を顰める。おまけにこの暑さだ、いくら悩みの無い能天気女のわたしでも流石にこれはイラッとする。季節は8月というそれこそ夏真っ盛りなのだから妥当な暑さではあるのだが、冬生まれの人間にとっては非常に酷な季節だ。今日のお天気お姉さんの話ではどうやら30℃越えらしい。降水確率はゼロパーセント。お洗濯日和が云々とか云っていた気がするが、そんなのは絶賛中学生のわたしにはどうだって良い話で、無意識に舌打ちしてしまうのも必然的なのである。何で夏休み真っ只中な時に登校せねばいかんのか…と口に出したくなるのだが、事の発端はわたしの成績がとっても凄いことになっていたからだ、勿論残念な意味で。というわけで、世で云う“補修授業”というやつに向かっているのだ。
 教室にはお馴染みの赤点常習犯メンバー達が揃いに揃っていた。「やっぱり、」と思ってしまうのはどうやらわたしも皆もそうらしい。案の定、山本が「お、やっぱりもか!」と笑いながら手を挙げる。隣には沢田がわたしの方を見て控えめに笑っていた。普通ならこの場に獄寺が居る筈なのだが、獄寺は常に学年トップをキープ、というか多分学校トップをキープしていると思う。全教科満点とか絶対人間じゃ無いだろう。そんなわけで、いつもの3人組は2人組になっていた。



「今日ってなんの補修だったっけ?」
「確か数学だった気ィする」
「げ、まじでか」



 数学はわたしがこの世で嫌いなものベスト5内にランクインしている。勿論赤点だ、当然補修になることは分かっていたのだが、初日から数学がやって来るとは思いもしなかった。わたしの中での2択はこうだ。



「寝るかサボるかだったらどっちが良いと思う?」
「お、オレに聞かれても…っていうかどっちも変わらないんじゃ、」
「うん、サボるから先生には風邪で欠席って云っといてー」



 沢田が「えぇえ!?」とわたしを見るのとわたしが教室を出るのはほぼ同時だった。廊下は丁度学校裏側の位置で、吹き込む風が涼しい。廊下で昼寝とか出来そうだな、と思ったが、それをやると確実にわたしの何かが減ってしまう気がするので思うだけにした。
 渡り廊下を歩いていると、ふと応接室が目に入る。詳しくは知らないが、応接室は風紀委員が使っているとかなんとかで。どんだけ偉いんだ風紀委員、と情報を持ってきた友達に対して突っ込んだのを覚えている。風紀委員>先生ということになっているというのも、「風紀委員に目をつけられたら終わり」というのも、委員長の雲雀恭弥という生徒が相当アレなんだというのも、先輩たちから耳にタコが出来そうなほど聞いた。まぁ、どうやら一部の女子からは風紀委員長は人気が高い様だ。わたしは未だにその雲雀恭弥とやらを見たことが無いのでなんとも云えないのだが。
 応接室の窓にちらちらと人影が写っているのが見える。見慣れたリーゼント達のシルエットだ。その中に一人だけリーゼントでは無い割と小柄な生徒が見えた、というよりは完全にわたしの方を見ていておもむろに目が合った、という方が正しいのかもしれない。否、それよりも、超見られている。



「つーか寧ろガン付けられてたり?」
 まさか、そんなわけは無い。わたしが風紀委員の人間に目を付けられる理由なんてそんな事は…。「ねぇ、君」…あるらしい。振り返ったわたしは多分某ホラー映画の貞子さんでも見た様な顔をしていたと思う。ついでに、云い掛けた言葉も思わず飲み込んでしまった。―あんたさっきまで応接室に居たひとですよね?



「頭髪の染色、スカート丈、ピアス」
 わたしを見下ろすような形で淡々と云ってのける。ほんの少しの間を置いて眉をぴくりと動かしたかと思えば、、応接室に居たひとはわたしの鞄のポケットの物をいつの間にか手に持っていて、思いっきりそれを踏み潰した。「未成年の喫煙」



 なんという絶対絶命。崖っぷちで銃口を付き付けられている気分だ。近所の雷オヤジよりも威圧感あるんじゃないかこのひと。



「ここまで規律を乱して僕の前を通るなんて大した自信だね」
「あー、まぁ常に自信満々で過ごしては居ますけど、」
「ふざけないでくれる?」
「…わたしいたいけな女子なんですが」



 首元に伝わる無機質なひんやりとした冷たさ。「暑い日だから有難い!」とかそういう状況では無いのは確かである。銀色の“ソレ”はトンファーというやつで、初めて生で見たという感動はあっさりと崩れていった。理由は簡単、知り合いの言葉を思い出したからだ。



 ―風紀委員長の雲雀恭弥ってひとね、気に入らない相手は仕込みトンファーでめっためたにするらしいよ。



 なんという絶対絶命。目の前の人間はまさかの雲雀恭弥だ。



 この場をどうすれば切り抜けられるのか、考えても無駄の様だ。微量のメンソールの匂いを嗅ぎ分けて、おまけに煙草が入っているところまで見事に当ててしまった、最早神業的なことをやってのけた相手から上手く逃げるなんて全くもって想像がつかない。わたしの予想では3秒以内に瞬殺される。齢14でデッド・オア・アライヴを体感する羽目になるなんて昨日のわたしが想像出来ただろうか。思考を巡らせている間に、首元のトンファーは退けられていた。雲雀恭弥はどこか機嫌が悪そうな表情をして、この時期に不釣合いであろう漆黒の学ランを翻す。「咬み殺したいところだけど…時間が無いから今日は見逃してあげるよ」
 リーゼントの一人が彼に歩み寄っている辺り、どうやら急用が入った様だ。



「命拾いしたね、
「…なんでわたしの名前を知ってるんだ」



 そう呟いたわたしの声は届いていない様であった。彼の姿はもう既に小さくなってしまっている。さわさわと風が新緑を揺らして、わたしはただそこに立っていた。



 * * *



 とりあえず、誰かこの状況を上手く説明出来る人間は居ないだろうか。



 すっかり夏休みは終わってしまって、今日は始業式。校長の長ったらしい話を聞くまでも無いわたしは当然の如く屋上でサボっていたわけである。9月初めは気候も丁度良く転寝していたのだが、ふと起き上がってみると、少し離れたところで雲雀恭弥も転寝をしていたのだ。寝起きのわたしの思考回路では、どうして雲雀恭弥と共に学校の屋上で転寝をしているのかが分からなかった。
 それよりも、彼が堂々とサボっているわたしを起こさなかったことに驚いた。第一印象が最悪だったであろうわたしを野放しにするのは有り得ないだろう、確実に目を付けられているはずだ。だからこそ、余計にわたしの頭の上にはクエスチョンマークが大量に浮かんでいるのだ。
 そろりと歩み寄って顔を覗き込むと、どうやら本当に寝ているらしい。静かに寝息を立てて、吃驚するほど微動だにしていなかった。睫毛の長さに思わず嫉妬しつつ、ヒュンと風を切る音にわたしは思わず身を縮めた。「ふうん、瞬発力はあるんだ」という聞き覚えのある声がして、反射的に閉じた目を開けると、明らかに不機嫌オーラの漂う雲雀恭弥が丁度振り上げたトンファーを下げているところだった。「僕の睡眠を妨げるなんてよっぽど咬み殺されたいんだね、君」



「いや、委員長さんって奇麗な顔をしてるなーと」

「寝惚けてるの?」
 微妙な笑みを浮かべたわたしに対して、彼は思いっきり怪訝そうな顔でわたしを見る。わたしは思わず視線を泳がしてしまう。「…一応寝起きではありますけども、」



「というか、」
「何」
「わたしのこと、起こさなかったんですね」
「…起こして欲しかったわけ?」
「あぁ、いや、そういうわけじゃないんですけど!」



 わたしは首を全力で横に振った。「別に、今日はそういう気分じゃなかったからだよ」と、雲雀恭弥は何処か興味無さ気に小さく息を吐く。



「ってことは、場合によっちゃわたしは起こされて委員長さんフルボッコにされてた、と?」
「そういうことだね」
「…即答ですか」



 この雲雀恭弥に2回も出くわしている時点で不運なのだが、2回も命拾いしたのは幸運だ。運が良いんだか悪いんだか。思わず肩を竦める。
 ふとチャイムの鳴る音が聞こえる。始業式が終わった様で、体育館の方からは生徒達の出てくるがやがやとした声が響いていた。そろそろ行かなければ担任に煩く云われるだろう、ついでに友達からも叱られそうだ。けれど、何故だかやけにこの空間が心地良くて、友達の家に泊まった翌日に家に帰る時と同じような名残惜しさがあって、わたしは立ち上がろうと足に入れた力を緩めた。
 隣を見ると雲雀恭弥は横になったまま小さく欠伸をしているところだった。「委員長さん疲れてます?」



「何で“委員長さん”呼びしてるの」



 返って来た答えは、わたしの問いを完全に丸無視しているものだった。



「な、なんとなく…?」



 あの雲雀恭弥だ、勝手に《雲雀さん》とでも呼ぼうならそれはもうアウトだろ、というわたしの固定観念がどうやら《委員長さん》呼びをさせていたようだ。流石に、《雲雀恭弥》と呼ぶわけにはいかない。そんなことをすれば完全にジ・エンド・オブ・私である。彼はわたしの返答に微かに眉を顰めていた。
 わたしは、トンファーが飛び出すのを覚悟で「じゃあ、雲雀さんとお呼びしても?」と聞いてみたところ、案の定オーケーは出なかったが、ノーも出なかった。多分、勝手にしろという意なのだと思う。
 雲雀さんはちらりとわたしを横目で見た。



「教室に戻らないの?」
「はい?」
「さっき戻ろうとして、止めてたじゃない」



 なんでこのひとは一々敏感というか鋭いというか。わたしが分かり易い、というのも一理あるかもしれないが。何と云えば云いのか分からずに、わたしは思わず云い淀んでしまった。雲雀さんはふあ、とまた欠伸をする。



「寝るから、昼になったら、起こして」



 意外な言葉に思わず雲雀さんを見る。彼は既に目蓋を閉じていた。「寝起きは良くない方だから、頑張ってね」そう云って早くも夢の世界へと落ちていった様だった。なんて心の篭っていない《頑張ってね》なんだ。寝起きの良くない人間、それがましてや雲雀さんだなんて、こんな難易度の高いミッションがあるだろうか。それでもわたしは不思議とうれしくて、自然と口元が緩んでしまっていた。



 2限目を告げるチャイムの音がやけに優しい。秋はまだ、始まったばかりである。

















(雲雀もほのぼの系?も久し振りに書いたので色々と残念なアレですが、目を血走らせました。遅くなってしまいましたが、参拾萬打おめでとう御座いました!慧の書く文章が誰よりも好きだと云い張ります。// 2010.04.09 蓮 )





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