セレナイト





 彼にとってわたしとは一体なんなのだろう。

 一隊員、一部下、其れは分かっている。勿論わたしにとって、彼とは只の上司だ。其れ以下でも、其れ以上でも無い。この時点で、既にわたし達の間には“上下関係”というものが成り立っているというわけである。其れ故、彼が稀に云う「君は僕のものだよ」という言葉が、わたしには理解し難いものだった。只、其のことに関して問うのが面倒臭かったため、それなりに分かっているフリをして毎度流していた。つい先刻もそうだ。だが、今日は勝手が違っていた、今日だけは。
 その日はいつも通りに彼のもとへ書類を持って行って、事務的な会話をした。何故隊長クラスでもないわたしが、ましてや伝達係というわけでもないのに、わざわざ直々にボスであるひとの元へ出向わなければならないのか。最近其の事実が彼との何気ない会話で分かったわけなのだが、実に故意的なものだった。事実を知ったとき、わたしは自分でも驚愕するほど無表情だった気がする。彼は相変わらず甘い物を頬張りながら鼻歌を歌っていた。わたしは其れを尻目に書類を纏めて、必要事項だけを述べて部屋を出る。これがいつもの内容だ。違っていたのは、丁度わたしの作業が終わる頃に鼻歌を止めて、珍しく彼から話し掛けて来たのだ。「ねぇ、」
 案の定、彼が口を開いたのとわたしが彼を見遣ったのは偶然にも同じタイミングだった。



「何でしょうか」
「君は僕のもの、知ってるでしょ」
「…はぁ、そうですね」
「じゃあ、他の子と会話する必要なんてないよね」
「……はい?」



 其れは、友達を無くせとでも云いたいのか。わたしは微かに眉間に皺を寄せながら、真白な後姿を眺める。彼が此方に振り向いて、笑った。



「別に、お友達とは仲良くして良いんだよ」
 あぁ、次の会議は何時からだったか。確かもうそろそろ始まるのではないか。 



「女の子とはね」



 其処でわたしはやっと彼の云っていることを理解した。つまり、彼の云う≪他の子≫とは異性という意味だ。わたしは過去に、誰かに同じようなことを云われた気がする。…あぁ、そうだ、大学生時代に付き合っていた恋人だ。恋人はわたしが男友達と連絡を取ったり話したりするのを酷く嫌った。当時わたしの携帯のアドレス帳は、異性のアドレスというのは兄と父と恋人の3人だけだったのは今でも鮮明に覚えている。そのことを思い出した途端、酷い倦怠感が圧し掛かった。「そうですか」とわたしはそう一言だけ告げて彼の部屋を後にする。ふわりと名の知らぬ花の香りが漂って、無意識に瞼を閉じていた。
 わたしに関わった≪彼等≫が姿を見せなくなったのは、その翌日だった。皆は任務で死んでしまったということだったが、そうでないということ位、とうに分かっていた。けれど別に、知ったからといって何か変わるというわけでもない。窓辺に転がって動かなくなった小鳥を見て「嗚呼、」と意味も無く呟く。冷たくなってしまった小さな体を指で撫でる。この小鳥は幸福だったのだろうか、と思いながら。

 さわさわと音を立てる木がどこか疎ましく感じた。

 彼があそこまでわたしに執着する意味はあるのだろうか。どう思考を巡らせても、納得のいく答えなどない。わたしは彼に執着される覚えは全くと云って良いほど無いのだ。仕事の成績が特別良いわけでも、ずば抜けて何かに優れているわけでも、絶世の美女というわけでも無い。日本生まれの、平凡な家庭で平凡に育ったただの という人間に過ぎないのだ。わたしなどに執着したところで、得をするわけでも無ければ損をするわけでも無い。所詮そんな存在だというのに。
 意味もなく開いた携帯電話は、虚しくベッドの上に放り出されて転がっている。身に覚えの無いサイトのメエルマガジンが届いたのを横目で見て、わたしは白い天井をぼんやりと眺めていた。段々と天井の壁紙がゲシュタルト崩壊してゆく。
 口から漏れた二酸化炭素と部屋の酸素が中和する音を聞いてわたしは夢の中へと落ちていった。



 * * *



 今わたしに男友達という人間は居ない。何故なら、白蘭というわたしの上司が次々と“消している”からである。彼の言動に関してはわたしは気に留めないつもりでいる。気にしていたらおちおち眠れやしないし、気にしてもきっと理解することなど出来ないだろう。そもそも理解する気も無い。

 わたしはただの隊員であって、ただの部下だ。其れを忘れてはいけない。



 * * *



「君が云う事を聞かないからだよ」
「何の話ですか」
「君のお友達、沢山居なくなっちゃったよ」
「一度しか話した事が無いひとも友達のカテゴリに入るのでしょうか?」
「僕が気に喰わなかったからだよ」
「とても子供じみた理由ですね、笑っちゃいそうです」
「君が笑い声を上げる前に首を締めてあげるよ」



 ―どう?そう付け加えて彼は三白眼を細めて優しく笑った。それはまるで愛していると云われている様で、わたしはなんとも云えない気分になる。しいて云うなら、少しだけ心臓がいつもより大きく鳴ったという事くらいだろうか。もしこれが胸の高鳴りというものだとすれば、わたしは確実にマゾヒスティックな人間なのかもしれない。別に、このひとになら何をされても構わない、して欲しい、そう思うわたしはきっともう、“そう”なのだ。
 甘美で緩やかな空気は絶えず満ちていて、響く秒針が刻々と時の流れを示して行く。彼の真白で淡白な部屋を彩る名の知らぬ赤い花は、初めてわたしがヒトを殺めた時の血の色と全く同じ色をしていて、妙な懐かしさに思わず目を顰めた。あの日から3年、長くも短くも無い。ただ、確実に記憶は薄れていて、なんの仕事だったか、何故殺めたのか、そもそも殺めたヒトの顔と名前はどうだったか、鮮明に思い出せはしなかった。性別が男だったのは覚えている。そして彼、白蘭という上司と一緒にトリガーを引いたのだ。銃声と共に肉の弾ける音と火薬の匂いとで、頭がぼんやりとした。覚えているのはこれくらいである。
 うっそりとした表情で、彼はわたしの首元をさらりと撫でて、そして手をかけた。「ねぇ、どうして欲しい?」といつもの声色で問う。
 わたしは思わず笑みが零れた。大きな窓に映るその顔は、自分でも見たことのないほど満面の笑みで、所謂≪幸せそうな顔≫をしていた。この時点で、きっと既に彼の問いに対するわたしの答えは決まっている。「………ら、……して」



 わたしにとって彼とは一体なんなのだろう。



「わたしを愛しながら殺して、兄さん」



 無数の情と混濁の渦の中に、わたしは只溺れて逝く。首もとの手の冷たさをに、わたしは思わず目を閉じる。──ねぇ、兄さん、いっそあなたも、道連れにしてしまって良いかしら?
 伸ばしたわたしの腕の先には彼の白い首。掌にドクドクと脈が打っているのを感じた。自分の兄に触れるのは初めてだ、物心ついた時にはわたしは一人っ子で、本当の肉親かわからないひと達に囲まれて暮らして居たからである。だからわたしは素直にこの状況が嬉しかった。兄さんの首に、触れている、嗚呼!
 


「僕と一緒に幸せになろうか、



 壱、弐の参、死。終焉と共に手に入れたのは確かな愛だった。「喜んで、然様なら」





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